産女観音は、正式名を「産女山・正信院」といい、永禄10年2月15日、奕翁傳公首座(えきおうでんこうしゅそ)を初代に開創された曹洞宗のお寺で、「安産」「子授け」の観音様として全国に広く知られています。
御本尊は千手観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)で、春日仏師(かすがのぶっし)によるものだといわれており、本堂は文政3年、黙旨賢首座(もくしけんどうしゅそ)の代に建立されたものです。
いい伝えによりますと、平安時代の終わりか鎌倉時代の初め頃、産女の道の終わるところを亀ヶ谷(かめがや)といい、ここに小さなお寺がありました。
しかし、あまりに奥まっていて檀家の人々のお詣りに都合が悪いということで、養子庵というところに移り、さらに、江戸時代後期、現在の地に越してきました。
このとき、寺の名も亀谷山正信院(かめがやざんしょうしんいん)から産女山正信院(うぶめさんしょうしんいん)に新ためられたということです。
永禄3年、今川義元(よしもと)が桶狭間(おけはざま)で織田信長に敗れた後、あとを継いだ義元の子の氏真も四方から攻められ、ついに、武田晴信によって、領土を奪われ、藁科渓谷を志太郡徳山村土岐(しだぐんとくやまむらとき)の山中へと逃げてきました。
氏真に従って、ここまで落ちてきた武士に信濃の人、牧野喜藤兵衛清乗(まきのきとうべえきよのり)という者がいました。
清乗の妻もいっしょに逃げてきたのですが、ちょうど臨月で、正信院近くの「清水のど」のあたりで、急に産気づき、ひどい難産で、とうとう出産できずに亡くなってしまいました。
清乗は、手厚く妻を葬りましたが、成仏できなかったとみえ、夜な夜な、幻となって村をさまよい、「とりあげてたもれ(助産してください)」と、悲しげに頼みました。
村人は哀れに思い、「とりあげてさし上げたいと思いますが、あの世に去った人のこととて、いかにすればよいやら」といいますと、「夫のカブトのしころ(錣)の内側に、わが家に伝わる千手観音を秘めてございます。その御仏に祈ってくださればよいのです。これからは、子どもの恵まれない方、お産みになさる方は、この御仏にお祈りしてください。必ず、お守りくださいます。」といいました。
そこで、村人は、千手観音を見つけだし、さっそく、正信院に納め、清乗の妻のために祈ってやりました。
すると、清乗の妻の幻があらわれ、お礼をいい、「この村をお守りしたいと思いますので、私を山神(さんじん)として、祠(ほこら)をお建てください」といいますので、近くの「いちが谷」にお宮を建て、産女大明神としてお祭りしました。
以後、村ではお産で苦しむ者がいなくなったといいます。
後に、村の名を産女(うぶめ)、正信院の山号も通称「産女山」と呼ぶようになりました。